マタイによる福音書25章14–30節を中心に、主の祈りの「日ごとの糧」がスチュワードシップの神学とどのようにつながるのかを探ります。
「よくやった、良い忠実なしもべよ。あなたはわずかなものに忠実だったので、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びにあずかりなさい。」
マタイによる福音書25章21、23節
「だから、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらすべてのものは加えて与えられる。」
マタイによる福音書6章33節
イエスはマタイによる福音書6章の主の祈りにおいて、祈りの順序を明確にされた。 「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)が先である。 その後に初めて、「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」(マタイ6:11)が続く。 神の国が先であり、日ごとの糧はその後である。これが祈りの文法である。
この順序は、マタイによる福音書25章のタラントのたとえにおいて、具体的な生き方の原理として示される。 主人はしもべたちにタラントを委ね(マタイ25:14–15)、長い時を経て帰って来て清算する(マタイ25:19)。 忠実なしもべは、主人の喜びにあずかるという、さらに大きな使命を与えられる。 タラントを忠実に用いることこそ、「まず神の国と神の義を求める」という行為であり、 その結果として日ごとの糧が加えられる。主の祈りの順序とタラントのたとえの構造は、同じ一つの真理を指し示している。
この講解は、2025–2026年に三度にわたって語られた、タラントのたとえの説教を統合したものである。 2025年の新年礼拝(WECインマヌエル・チャペル)、2026年の新年礼拝(OAPCインマヌエル・チャペル)、 そして2026年の宣教指導者シェパード・ミーティング(ドーバーのエリムウッド・ホテル)で語られたこれら三つの説教は、 同じ聖書箇所を異なる角度から照らし、タラントのたとえの豊かな深みを明らかにする。 新年礼拝では一年を生きる知恵を、シェパード・ミーティングでは宣教指導者の自己点検を強調した。 三つの説教を合わせて読むとき、この聖書箇所の立体的な意味が浮かび上がる。
マタイによる福音書24–25章は、神学者たちが「小黙示録(Little Apocalypse)」、あるいは オリーブ山の説教(Olivet Discourse)と呼ぶ箇所である。 オリベット(オリーブ山、Mount of Olives)はエルサレムの東にある山で、 イエスが祈り(ゲツセマネ)、教え、ついには天に昇られた場所である。 ヘブライ語の「ゲツセマネ」は、「オリーブを搾る所(搾油所)」を意味する。 主の最も深い苦難の場であると同時に、栄光の出発点となった場所である。
タラントのたとえ(マタイ25:14–30)は、終わりの時を扱う三つのたとえの中央に位置している。 三つのたとえは、一つの問いに共に答える。「最後の日に、どのように備えるべきか。」
| 順序 | たとえ | 聖書箇所 | 中心主題 |
|---|---|---|---|
| ① | 十人のおとめのたとえ | マタイ25:1–13 | 備えた者と備えなかった者 — 待つ姿勢 |
| ② | タラントのたとえ | マタイ25:14–30 | 忠実な管理者の生き方と清算 — 用いる姿勢 |
| ③ | 羊と山羊のたとえ | マタイ25:31–46 | 裁きの基準 — 仕える姿勢 |
十人のおとめのたとえが待つ姿勢を、羊と山羊のたとえが仕える姿勢を教えるとすれば、 タラントのたとえはその間にあって、用いる姿勢を教える。 委ねられたものをどのように用いたかが、最後の日の清算の基準となる。 新年最初の主日にこの御言葉を心に留めるのは、一年をどのような姿勢で生きるのかを、 主の基準に照らして点検するためである。
タラントのたとえが含まれるオリーブ山の説教は、教理的には終末論(Eschatology)の中心となる聖書箇所である。 歴史は、神の御子がこの地に来られる前と後に分かれる。 ギリシア語では、年代的に流れる時間をクロノス(χρόνος)と呼び、決定的な神の時をカイロス(καιρός)と呼ぶ。 旧約の歴史が目指していたのは、イエス・キリストの初臨(アルファ、α)であり、 それ以降の歴史は、神の国の完成(オメガ、Ω)に向かって進んでいく。 タラントのたとえにおける「長い時を経て」はクロノスの流れであり、 「主人が帰って来て清算すること」はカイロスである。 私たちは今、二つのカイロスの間にあるクロノスを生きている。
タラントがどれほど大きな価値を持つかを知ってこそ、このたとえの重みを実感できる。 タラントは、古代の貨幣の重量単位である。 銀(silver)の一タラントは6,000デナリオンに相当し、 一デナリオンが一日分の賃金(マタイ20:2)であることを考えると、約16–20年分の賃金に当たる。
ところが、マタイによる福音書25章のタラントは、金(gold)のタラントである。 金は銀の12–15倍の価値があるため、 金の一タラントは、約240–300年分の労働賃金に相当する莫大な価値を持つ。 歴史家ヨセフスの記録によれば、紀元66年、ローマ総督フロルスが エルサレム神殿の金庫から17タラントを強制的に徴発したことが、第一次ユダヤ・ローマ戦争の導火線となったほどである。
このたとえで最も少なく受け取った者でさえ、「金の一タラント」を受け取った。 主が私たち一人ひとりに委ねられた使命の価値も、これと同じである。 このことを知って生きる者と、知らずに生きる者とでは、その生き方が根本的に異なる。
聖書には、よく似た二つのたとえがある。
| たとえ | 聖書箇所 | 与え方 | 中心原理 |
|---|---|---|---|
| ミナのたとえ | ルカ19:11–27 | 全員に同じく一ミナずつ | 教会のすべての肢体は等しく尊い — 目が足より尊いわけではないように |
| タラントのたとえ | マタイ25:14–30 | 「それぞれの能力に応じて」異なる分量 | 受けた分量にかかわらず、委ねられたことに忠実であること — 基準は結果ではなく姿勢 |
ミナのたとえは平等を、タラントのたとえは忠実さを教える。 二つのたとえは対をなし、一つの真理を完成させる。 共同体の中では、すべての人が等しく大切であり(ミナ)、 それぞれが委ねられた持ち場で忠実に生きなければならない(タラント)。
このたとえの鍵となる言葉は、「委ねる」である(マタイ25:14)。 私たちの人生、奉仕、才能、財産 — すべては神が委ねてくださったものである。 管理者(steward)とは、主人のものを管理する者であって、自分のもののように処分する者ではない。 この事実を知る人は、生き方が変わる。
| しもべ | 受けたタラント | 行動 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 第一のしもべ | 五タラント | 「すぐに行って商売をし」 — 直ちに行動 | 五タラントをもうける → 「よくやった、良い忠実なしもべよ」 |
| 第二のしもべ | 二タラント | 「同じようにして」 — 同じ忠実さ | 二タラントをもうける → 同じ称賛 |
| 第三のしもべ | 一タラント | 「出て行って地を掘り、隠しておいた」 | タラントを取り上げられる → 「悪い怠惰なしもべよ」 |
第一のしもべと第二のしもべが受けた称賛は、全く同じである。 受けたタラントの大きさは異なっても、忠実な姿勢は同じだったからである。 神は結果の規模ではなく、忠実な姿勢をご覧になる。 「すぐに」(直ちに)という言葉が重要である。 忠実さは特別な能力から生まれるのではなく、すぐに行動することから始まる。 長い時を経て、主人が帰って来て清算する(マタイ25:19)。 人生には必ず清算の日が訪れる。 時は流れ、その過ぎ去った時間の中でどのように生きたのかを問われ、私たちは神の前に立つことになる。
ルカによる福音書9章が示す弟子の道の三つの要点 — 所有への執着を乗り越え、血縁よりも神の召しを重んじ、 後ろを振り返らず、直ちに応答すること — は、タラントのたとえの精神とまさに重なっている。 管理者としての生き方は、この三つの弟子の道を具体的に実践することである。
一タラントを受けた者の言葉は、一見、何も間違っていないかのように聞こえる。 「ご主人様、あなたは厳しい方で、蒔かなかった所から刈り取り、散らさなかった所から集める方だと知っていたので、 恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました」(マタイ25:24–25)。 御言葉をOIA(観察–解釈–適用)の方法で分析すると、誤りがどこにあるのかが正確に明らかになる。
「あなたは厳しい方で、蒔かなかった所から刈り取られます。」神がどのような方であるかを知っていた。観察は正確である。
神は無から有を創造される方である。聖書的な解釈も間違ってはいなかった。
「それなら、私がわざわざ商売をする必要はないのではありませんか。」ここに核心的な誤りがある。 恵みを受けた者は、その恵みを他の人へと流していかなければならない。 委ねられたタラントを地に埋めておくこと、すなわち、受けた恵みを分かち合わないことが、この人の犯した罪である。 少なくとも、利息だけでも得るべきだった(マタイ25:27)。
ヤコブは、財産が神の恵みであることを知っていたので(創世記28:20–22)、 石を枕にして眠っていた頃にも祈り、多くの財産を得た後にも、兄に差し出すことを恐れなかった。 恵みを受けた者とは、その恵みを他の人へと流していく者である。
囲碁の達人は、一つひとつの石を慎重に置くので、数百手にわたる流れをすべて覚えている。 信仰も同じである。 御言葉の一つひとつを慎重に受け止めながら生きてきた者は、生涯その御言葉を握り続ける。 幼い頃に植えられた御言葉が今も生きて働いているのは、そのためである。
「持っている者は皆、さらに与えられて豊かになり、持っていない者は、持っているものまでも取り上げられる。」
マタイによる福音書25章29節
これは世俗的な「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という話ではなく、霊的な原理である。 忠実な者は、さらに大きな使命を受けてより大きな働きをし、より大きな喜びにあずかるようになる。 反対に、恵みを他の人へと流していかない者からは、すでに持っているものさえ取り去られる。
「長い時を経て、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」(マタイ25:19)。 人間を理解する鍵は、「人間は時間の中を生きる有限な存在である」という自覚にある。 コヘレトの言葉は、最初の章(1:2)と最後の章(12:8)の双方で人生の有限性を宣言し、 その中で次のように命じている。
「若い日に、あなたの創造主を覚えなさい。」
コヘレトの言葉12章1節
「人間には一度死ぬことが定められており、その後には裁きがある。」
ヘブライ人への手紙9章27節
裁きの時計は砂時計である。 砂は絶えず下へと落ち続け、私たちの時間も絶えず減り続けている。 コヘレトの言葉7章2節が「宴会の家に行くより、喪中の家に行くほうがよい」と語る理由は、ここにある。 死を前にして初めて、人は何を優先すべきかを知る。 この事実を自覚することが、知恵の始まりである。
「よくやった、良い忠実なしもべよ。……主人の喜びにあずかりなさい」(マタイ25:21、23)。 これが報いである。より多くのものを委ねられ、主人の喜びにあずかることである。
「太陽の栄光と月の栄光は異なり、星の栄光もまた異なる。星と星とでも、その栄光は異なる。」
コリントの信徒への手紙一15章41節
永遠の世界にも、栄光の段階がある。 これは世俗的な見返りを求める信仰ではなく、恵みのうちに与えられる、神の公正な報いである。 今、この地上での生き方が、永遠における立場を決める。 マタイによる福音書16章19節の「あなたが地上でつなぐことは、何でも天でもつながれる」という言葉のように、一瞬一瞬の生き方が永遠の報いを決める。 報いを意識する者は、熱く生きる。
タラントのたとえを深く理解するには、その土台となる教理的基盤を知らなければならない。 張ダビデ牧師は、説教全体を通して、タラントのたとえをキリスト論・救済論・終末論という三つの軸から解釈している。
タラントを委ねた主人は、「天と地の一切の権威」を授けられた方である(マタイ28:18)。 上からのキリスト論は、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには」(ヨハネ3:13)という宣言から出発し、 下からのキリスト論は、「時が満ちると、神は御子を遣わし、女から生まれさせ」(ガラテヤ4:4)という言葉から出発する。 イエスは、まことの神(Vere Deus)であると同時に、まことの人(Vere Homo)である。 フィリピの信徒への手紙2章6–8節のケノーシス(κένωσις) — 神と等しい方が自らを低くし、しもべの姿を取られたこと — が、タラントのたとえの背景にある。 主人が先にしもべとなられたからこそ、その方に従う私たちも、しもべとして生きることができる。
なぜ私たちは、この莫大なタラントを受けることができるのか。 「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、 多くの人の身代金(Ransom)として、自分の命を与えるためである」(マタイ20:28)。 ヘブライ人への手紙9章22節が宣言するように、「血を流すことがなければ、赦しはない」が、 その血が流されたことによって、私たちは自由な者となった。 レビ記16章の贖罪日の祭儀 → イザヤ書53章の苦難のしもべ → イエスの十字架へと 続く贖いの流れが、私たちがタラントを受ける法的根拠である。 代価を払って贖われた者であるからこそ、私たちは自分自身のものではなく、主のものである。 これが、スチュワードシップの神学を支える神学的根拠である。
タラントのたとえの清算の場面は、終末における裁きの縮図である。 ヘブライ人への手紙9章27節は、「人間には一度死ぬことが定められており、その後には裁きがある」と語る。 個人の終末は死であり、歴史の終末は神の国の完成である。 歴史の解釈には、前千年王国説(Premillennialism)、無千年王国説(Amillennialism)、後千年王国説(Postmillennialism)があるが、 どの立場に属していても、タラントのたとえの結論は同じである。 清算の日は来る。その日に向かって、忠実にタラントを用いなければならない。 大切なのは、終末論のどの立場に立つかではなく、 終末論がキリスト論と救済論を土台としなければならないという点である。 救われた者が裁きの日を希望をもって待ち望むこと、それが健全な終末論である。
「天と地の一切の権威が、私に授けられた。」
マタイによる福音書28章18節
この権威は、福音を伝え、教え、洗礼を授ける権威である。 この世のいかなる支配者も、この働きを行うことはできない。 私たちは、天と地を結ぶ権威を委ねられた者たちである。 この事実を知る者は、直ちにタラントを用いて商売をする。
ケリュグマ(Kerygma、宣べ伝えること) → コイノニア(Koinonia、交わり) → ディアコニア(Diakonia、奉仕)。 この三つの段階が、教会共同体の構造である。 御言葉が絶えず宣べ伝えられ、その御言葉が私たちの内に入ると交わりが生まれ、 交わりがあふれると、自然に奉仕へとつながっていく。 この循環が生きているとき、日ごとの糧は途絶えることがない。
シェパード・ミーティングで、張ダビデ牧師は、指導者を立てる際に点検すべき三つの試練を強調した。
惜しみなく分かち合うと、かえって豊かになるという逆説を、箴言はすでに宣言していた。 「惜しみなく施しても、なお富を増す者がいる」(箴言11:24)、 「彼は惜しみなく貧しい人々に与えた。その義は永遠に続く」(コリント二9:9=詩編112:9)。 タラントをため込まず、他の人へと流していくことが、逆説的に、さらに大きな実りを生む。
タラントのたとえの教えを、生き方の原理としてまとめると、五つになる。
「求めなさい(Ask)。そうすれば与えられる。探しなさい(Seek)。そうすれば見つかる。 門をたたきなさい(Knock)。そうすれば開かれる」(マタイ7:7)。 求めることは祈り、探すことは準備と行動、たたくことは実行である。 神は、私たちが備えた分だけ働かれる。 器が備えられてこそ、満たしてくださる。 人の備えと資源の備えが整うとき、神が満たしてくださる。 偶然(coincidence)はない。摂理(Providence)である。
ネヘミヤは王の献酌官であった。 華やかな地位ではなかった。 しかし、エルサレムの城壁再建というビジョンを抱いて祈り、機会が訪れたとき、直ちに実行した(ネヘミヤ1–2章)。 神は彼を通して歴史を動かされた。 偉大なしもべこそが偉大な主人である。低くなることこそ、高くされることである。
タラントのたとえに登場する二人のしもべ(五タラント、二タラント)が受けた称賛は、同じである。 受けた分量が異なっても、忠実さは同じだったからである。 神は結果の大きさではなく、忠実な姿勢をご覧になる。 これこそ、このたとえが伝える最も慰めに満ちたメッセージであり、同時に、最も厳粛な警告でもある。
「今日、私たちに日ごとの糧をお与えください」は、単なる物質的な願いではない。 これは、スチュワードシップの神学の告白である。 今日一日を生きるための力と使命を神に求めつつ、 その求めが、まず神の国と神の義を求める生き方の中でなされるという宣言である。 主の祈りの順序が人生の順序となるとき、 タラントのたとえの主人が私たちに語りかける言葉が聞こえてくる。
「よくやった、良い忠実なしもべよ。あなたはわずかなものに忠実だったので、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びにあずかりなさい。」
マタイによる福音書25章23節
タラントを地に埋めず、今日、今すぐ商売を始めなさい。 主人が帰って来られる日、その喜びにあずかることが、私たちの目標である。