マタイの福音書7:7–11とルカの福音書11:5–10を中心に、祈りが信仰の行動によって完成される原理を探ります。
「求めなさい。そうすれば、あなたがたに与えられます。探しなさい。そうすれば、見いだします。門をたたきなさい。そうすれば、あなたがたに開かれます。求める者はみな受け、探す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。」
マタイの福音書7:7–8
「また、イエスは言われた。あなたがたのうちのだれかに友人がいて、真夜中にその人のところへ行き、『友よ、パンを三つ貸してください。旅の途中の友人が私のところに来たのですが、出してやるものがないのです』と言ったとします。すると、その人は中から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも私と一緒に寝床に入っている。起きて何かをあげることはできない』と答えるでしょうか。」
ルカの福音書11:5–7
マタイの福音書7章は、山上の説教の最後の章である。 イエスは、狭い門(マタイ7:13–14)、偽預言者(マタイ7:15–20)、「主よ、主よ」と言う者(マタイ7:21–23)、 岩の上の家(マタイ7:24–27)をもって山上の説教を締めくくられる。 その直前、黄金律(「人からしてもらいたいと望むとおりに、あなたがたも人にしなさい」、マタイ7:12)へと進みながら、 主は祈りについて、最も簡潔で、最も力強い命令をお与えになる。
「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」(マタイ7:7)。 この三つの言葉は、単なる繰り返しではない。 求め、探し、たたくことは、祈りが信仰の内面から信仰の行動へと前進する三つの局面である。 なぜ主は、一つの命令だけではなく、三つの段階を語られたのか。 この問いに答えることが、本講解の出発点である。
山上の説教(マタイ5–7章)は、イエスが神の国の民の生き方を教えられた最初の大講話である。 5章は八つの幸いから始まり、「あなたがたは世の塩、世の光である」と宣言し、 6章は主の祈りを含む敬虔の実践(施し・祈り・断食)と、「まず神の国とその義を求めなさい」という命令へと続く。 7章に至ると、イエスは祈りを、生活における実践的な原理としてまとめられる。 6章の主の祈りが祈りの内容を教えているとすれば、 7章の「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、祈りの姿勢と過程を教えている。 この二つの本文は、一対をなしている。
ギリシア語原文では、「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、いずれも現在命令形である。 一度きりで終わるのではなく、継続して、繰り返し行いなさいという命令である。 それぞれの言葉は、段階的に強さを増していく。
神に祈り、すでに与えられたと信じる。自分の必要を神の前に差し出す、信頼の行為である。まだ目に見える行動はなくても、祈りそのものが、すでに信仰の最初の動きなのである。
信仰をもって備え、行動する。ただ座って待つのではなく、求めたものに向かって体を動かす段階である。信仰と行動が結びつくところである。
見いだしたことを実行に移し、門の前に立つ。最も積極的で、具体的な行動である。門をたたく人は、すでに門の前まで来た人である。答えは、その人に与えられる。
この三つの段階は、祈りが内なる願いから始まり、準備と行動、そして積極的な実行へとつながる流れである。 神は、私たちが備えた分だけ働かれる。器が備えられてこそ、満たしてくださる。 求めることは器を手に取る行為であり、探すことは器を洗う行為であり、 たたくことは器を差し出して、満たしてくださいと願う行為である。
マタイの福音書7:7–8には、独特の構造がある。 7節は命令形(「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」)であり、 8節は現在直説法(「求める者はみな受け、探す者は見いだし、たたく者には開かれるのです」)である。 命令と保証が並んでいる。 イエスは、命令をお与えになるだけではない。必ず実現するという神の保証も、ともにお与えになる。 これこそ、祈りをやめずに続ける力である。
| 命令(7節) | 保証(8節) | 神学的意味 |
|---|---|---|
| 求めなさい | 求める者はみな受ける | 祈りには必ず答えが与えられる — 応答の確実性 |
| 探しなさい | 探す者は見いだす | 信仰の行動は必ず目的地にたどり着く — 過程の確実性 |
| たたきなさい | たたく者には開かれる | 最後までたたき続ける者に門は開かれる — 忍耐の確実性 |
イエスは、「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」という命令のすぐ後に、父の心を説明される。
「あなたがたのうち、息子がパンを求めているのに、石を与える者がいるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与える者がいるでしょうか。あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおさら、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者に良いものを与えてくださるのではありませんか。」
マタイの福音書7:9–11
この比較は、単に「神も良いものを与えてくださる」という慰めではない。 そこには、さらに深い論理がある。 悪い者(罪人)でさえ、自分の子どもには良いものを与える。 それならなおさら、善なる父なる神が、求める子どもに良いものを与えてくださらないはずがない。 これは、小から大への論証(小小論証、a minori ad maius)である。 小さいことが事実であるなら、より大きいことは、どれほど確かであろうかという論理である。 人間の父の愛が事実であるなら、父なる神の愛は、それを限りなく超えている。
ルカの福音書11:13は、この箇所をさらに明確に説明している。 「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおさら、天の父は、ご自分に求める者に聖霊を与えてくださるのではありませんか。」 マタイは「良いもの」と表現し、ルカは、それが聖霊であることを明示している。 神が求める者に与えてくださる最も良いものは、聖霊である。 聖霊がともにおられるとき、求め、探し、たたくすべての行為が実を結ぶ。
神は全能であられるので、私たちが求める前から、すでに必要をご存じである(マタイ6:8)。 それでも「求めなさい」と命じられるのには、理由がある。 第一に、求めることは、神に頼り、信頼することを私たちに教える。 自分の力だけで十分だと思う者は、求めない。 求めること自体が、「私は神なしには生きられません」という告白なのである。 第二に、求めることは、受け取る器を備える過程である。 何の備えもなく受け取ったものは、感謝も責任も伴わずに流れ去ってしまうが、 求めながら待った者は、受け取ったものの重みを知り、管理者のようにそれを扱う。 求めることは、答えが与えられたとき、それを正しく用いるための備えを整える過程なのである。
ルカの福音書11章は、マタイの福音書7章の「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」を、生き生きとした物語で解き明かしている。 弟子たちが祈りを教えてほしいと願うと(ルカ11:1)、 主は主の祈りを教え(ルカ11:2–4)、続けて真夜中の友人のたとえを語られる(ルカ11:5–10)。 主の祈りと「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、このたとえを通して結びついている。
たとえの場面は、次のようなものである。 ある人が真夜中に、旅の途中の友人を迎えたが、食べさせるものがなかった。 彼は隣人の家の戸をたたき、パンを三つ貸してほしいと願う(ルカ11:5–6)。 家の中にいる人は、もう戸を閉め、子どもたちも寝ていると言って断る(ルカ11:7)。 イエスは言われる。
「あなたがたに言います。たとえ友人だからという理由では起きて与えなくても、その人が粘り強く願い続けるので、起きて、必要なものを与えるでしょう。」
ルカの福音書11:8
「粘り強く願い続けること」と訳されたギリシア語原文は、「アナイデイア(ἀναίδεια)」である。 しばしば「恥知らず」と訳されるが、より正確には「諦めない粘り強さ」である。 友人が戸を開けたのは、友情のためではなく、最後までたたき続ける、その執拗さのためであった。 これが、「たたきなさい(Knock)」の生きた実例である。 夜が更けても、戸が閉まっていても、子どもたちが眠っていても、最後までたたき続けることが祈りなのである。
このたとえで、見過ごしてはならないことがある。 戸をたたいた人は、自分の空腹のためではなく、 訪ねて来た友人の空腹のために、夜中に起きて隣人の戸をたたいた。 これこそ、とりなしの祈り(intercessory prayer)の本質である。 「夜が更けていても、空腹の友のために戸をたたく、愛の心をもって生きなさい」ということが、この講解の核心である。 タラントのたとえにおける「受けたものを分かち合う管理者」と、真夜中の友人のたとえにおける「とりなす祈り手」は、 同じ一人の人の二つの姿である。 受けたものを分かち合う者が、隣人のために戸をたたくのである。
「時に応じて、わたしの民に食物を分け与える者は、どこにいるのか。」 この呼びかけは、単に物質的な食物の問題ではない。 みことばを必要としているところに、みことばを伝え、 慰めを必要としているところに、慰めを届け、 ビジョンを必要としているところに、ビジョンを抱いて訪ねて行く者を、神は求めておられる。 その人こそ、夜中に起きて戸をたたく人なのである。
「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、単なる祈りへの勧めではない。 それは、神が働かれる仕方、すなわち摂理(Providence)の原理である。 神は、私たちが備えた分だけ働かれる。 人の備えと、神が満たしてくださることが出会うところで、奇跡が起こる。
これを東洋の言葉で表現すれば、至誠感天(至誠は天に通ず)である。 至誠とは、人が果たすべき役割、すなわち、求め、探し、たたく行動である。 感天とは、神が成し遂げられる部分である。 至誠によって天を動かすということではない。 正確には、神が私たちの備えの度合いに応じて働かれる、という意味である。 偶然(coincidence)はない。すべては神の摂理(Providence)である。
聖書には、前提条件の原理が繰り返し登場する。 エリヤの時代、ツァレファテのやもめは、最後に残った油と小麦粉で、まずエリヤの食事を作ったとき、 油の壺も粉のかめも空にならないという奇跡を経験した(Ⅰ列王記17:12–16)。 エリシャは、あるやもめに、隣人から器を借りて来るように言った。 借りて来た器の分だけ、油が満たされた(Ⅱ列王記4:1–7)。 借りて来た器がなければ、注いで満たす油もなかったのである。 求め、探し、たたく行動は、神が満たしてくださる器を備える行為である。
ネヘミヤの物語は、この原理を最も生き生きと示す例である。 彼は王の献酌官という立場にありながら、エルサレムの城壁を再建するビジョンを抱いた(ネヘミヤ1章)。 夜中に起きて、崩れた城壁を見て回り(ネヘミヤ2:12–15)、 王の前で大胆に願い出たとき(ネヘミヤ2:4–8)、神がすでに備えておられた道が開かれた。 求め(祈り)、探し(準備)、たたいた(実行)のである。 偶然ではなかった。摂理であった。
タラントのたとえ(マタイ25:14–30)には、「すぐに行って商売をし」(マタイ25:16)という一節がある。 直ちに行動したことが、忠実さのしるしであった。 第一のしもべと第二のしもべは、求め(神を信頼し)、探し(備え)、たたいた(実行した)。 一タラントを受け取ったしもべは、求めることも、探すことも、たたくこともしなかった。 ただ、地面を掘っただけであった。 彼はタラントを受け取ったが、前提条件を備えていない者であった。 受け取ったものがあっても、用いなければ、ないのと同じであり、 用いなければ、ついには取り上げられる(マタイ25:29)。 「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、タラントを地に埋めてはならない、という命令と同じ命令なのである。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものをご存じです」(マタイ6:8)。 神は全知であられる。それでも、求めなさいと命じられる。 これは矛盾ではない。祈りは、神の情報不足を補う行為ではなく、 私たちが神と関わりを持つあり方である。 親は、子どもに何が必要かを知っている。しかし、子どもが「お父さん、おなかがすいたよ」と言うとき、 その関係が生きていることが確かめられる。祈りは、父なる神との生きた関係の表現なのである。
ルカの福音書11:13は、神が求める者に与えてくださる最も良いものが、聖霊であることを明らかにしている。 ヨハネの福音書16:7で、主は「わたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来られません」と言われた。 聖霊の時代は、主の昇天の後に開かれた。 求めなさい・探しなさい・たたきなさいという命令は、聖霊のうちに祈りなさいという命令として完成される。 聖霊がともにおられるとき、私たちの願いは、神のみこころのうちにある願いとなり(ローマ8:26–27)、 探すものは必ず見いだされ、たたく門は必ず開かれる。
「まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、あなたがたに加えて与えられます」(マタイ6:33)。 求めなさい・探しなさい・たたきなさいという命令において、最初に求めるべきものは、神の国と義である。 これが、すべての祈りの優先順位である。 個人の必要、家族の必要、働きの必要を求める前に、まず神の国を求めなければならない。 順序が入れ替わるとき、祈りは自分の欲望を満たす道具へと成り下がる。 ヤコブは警告した。「求めても受けられないのは、自分の欲望のために使おうとして、間違った求め方をしているからです」(ヤコブ4:3)。 正しく求めるための前提は、正しい優先順位なのである。
マタイの福音書7章とルカの福音書11章の教えを、生き方の原理としてまとめると、五つになる。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられます。十分に量り、押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどにして、あなたがたの懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその量りで、あなたがたも量り返されるのです。」
ルカの福音書6:38
「惜しみなく、とがめることなく与えてくださる」(ヤコブ1:5)神は、 私たちがささげるものよりも、さらに豊かに満たしてくださる。 「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」という表現は、古代の穀物市場の言葉である。 升に穀物を入れるとき、隙間がないように押し込んで入れ、揺すって隙間を埋め、 それでも足りなければ、あふれるほどに、さらに盛ってくれるのである。 神の答えは、それと同じである。 神は、求める者に対して物惜しみされない。 問題は、私たちが求めるか、探すか、たたくか、ということである。
「求めなさい・探しなさい・たたきなさい」は、山上の説教の結びに位置する、最も単純でありながら、最も力強い命令である。 この三つの言葉には、祈りが内なる願いから始まり、準備と行動、そして最後まで諦めない実行によって完成される流れが込められている。 神は、この流れの中で働かれる。 偶然はない。摂理である。
夜が更けていても、友人の空腹のために隣人の戸をたたいた人のように、 私たちも今夜、だれかのために、何かのために、戸をたたかなければならない。 祈りは、神に無理強いすることではなく、神がすでに備えておられる門を開く行為である。 その門は、求める者に、探す者に、たたく者に必ず開かれると、 イエスは約束された。
「たたく者には開かれるのです。」
マタイの福音書7:8
今日、求めなさい。そして、探しなさい。そして、たたきなさい。 神が、必ず開いてくださる。