張ダビデ牧師 · マタイの福音書講解アーカイブ · テーマ別講解

読むこと、勧めること、教えることに専念しなさい
— みことばの働きの三本の柱

テモテへの手紙第一4:13を中心に、みことばを読み、勧め、教える働きが、教会と一人ひとりの人生をどのように建て上げていくのかを探ります。

📖 テモテへの手紙第一4:13–16 / ローマ人への手紙10:14–15 ✍ 張ダビデ牧師

「私が行くまで、読むことと勧めることと教えることに専念しなさい。」

テモテへの手紙第一4:13

「それでは、信じていない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができるでしょうか。遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。『良い知らせを伝える人たちの足は、なんと美しいことか』と書かれているとおりです。」

ローマ人への手紙10:14–15

I. パウロが獄中から伝えた最後の願い — 「専念しなさい」という命令の背景

テモテへの手紙第一4:13は、パウロが若い牧会者テモテに送った手紙の中心的な勧めである。 「私が行くまで、読むことと勧めることと教えることに専念しなさい。」 これは三つのことを行いなさいという命令ではなく、この三つのことのうちにとどまって生きなさいという命令である。 「専念しなさい」と訳されたギリシア語は「エピメノー(ἐπίμενε)」で、 「〜にとどまり続ける、〜にひたすら打ち込む」という意味である。 何かの片手間にするのではなく、これに人生をかけなさいという求めである。

この手紙を書いた当時、パウロはすでに何度も投獄と苦難を経験していた。 そしてテモテへの手紙第二4:13では、獄中で最後の手紙を書きながら、こう願っている。 「私がトロアスのカルポの家に置いてきた上着と、書物、特に羊皮紙に書かれたものを持って来てください。」 処刑を前にした人が求めたのは、衣服と書物、何よりも羊皮紙に記された聖書であった。 ページが擦り切れるほど聖書を読みなさい。 世界を横断して旅をしていても、聖書を手放さないことが、最も大切な糧となる。 パウロの最後の願いが、この講解の出発点である。

テモテへの手紙第一4:13の文脈 — 敬虔のための訓練

テモテへの手紙第一4章全体は、敬虔のための訓練を主題としている。 パウロは4:7で「敬虔に至るように自分を鍛えなさい」と述べ、 4:8では「からだの訓練には多少の益がありますが、敬虔はあらゆることに有益です」と付け加える。 その敬虔の訓練の中心が、まさに4:13の三つである。 読み、勧め、教えることが、敬虔のための訓練なのだ。 そして4:15–16は、次のように結んでいる。 「これらすべてのことに全身全霊を傾け、あなたの成長をすべての人に明らかにしなさい。 自分自身と教えに気を配り、このことを続けなさい。そうすることによって、あなた自身と、あなたの教えを聞く人たちを救うことになるからです。」 みことばの働きは、働き手自身をも、聞く者をも救う。

II. みことばの働きの三本の柱 — 読むこと・勧めること・教えること

ギリシア語の原文において、この三つのことばは、それぞれ明確な意味と機能を持っている。 単なる繰り返しではなく、みことばが人の内に入り、根を下ろしていく一連の過程を成している。

第一の柱
読むこと
アナグノーシス(ἀνάγνωσις)

人々の前で、聖書を声に出して読む行為。初代教会は印刷技術のない時代にあったため、会堂や教会の公の礼拝において聖書を朗読することが、あらゆる働きの土台であった。みことばを人々の耳に届けることが、その始まりである。

第二の柱
勧めること
パラクレーシス(παράκλησις)

読んだみことばを生活へと結びつける牧会的な勧め。「パラクレーシス」は、聖霊を指す「慰め主」と同じ語源を持つ。傍らに立ち、ともにみことばの道を歩むよう励まし、その適用を助けることである。

第三の柱
教えること
ディダケー(διδαχή)

体系的な教理教育。単なる適用を超えて、信仰の骨組みを築く教育である。種を蒔く人のたとえにおいて、良い地の特徴が根の深さにあるように、ディダケーは信仰の根を深く下ろさせる。

三本の柱には順序がある。 まず、みことばが聞こえなければならない(読むこと)。それが生活に結びつき(勧めること)、根を下ろす(教えること)。 この順序を飛ばすことはできない。 読んでいないみことばによって勧めることはできず、 勧めていないみことばを教えによって定着させることもできない。 三本の柱がそろって立つとき、みことばの働きは十全なものとなる。

ギリシア語機能教会の中での位置づけ
読むこと アナグノーシス みことばを聞こえるようにする — ケリュグマ(宣教)の土台 公の礼拝 / 聖書朗読
勧めること パラクレーシス みことばを生活に結びつける — コイノニア(交わり)のことば 小グループ / 牧会的な相談
教えること ディダケー みことばを骨組みとして据える — ディダケー(教育)の体系 聖書の学び / 教理教育

III. ケリュグマ・コイノニア・ディアコニア — 教会共同体の構造

パウロがテモテに命じた三つのこと、すなわち読むこと、勧めること、教えることは、 教会共同体の三つの機能に正確に対応している。

ケリュグマ(Kerygma、宣教)とは、人々の前でみことばを読み、宣べ伝えることである。 「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができるでしょうか」(ローマ10:14)。 教会の第一の機能は、みことばを宣べ伝えることである。 宣教がなければ聞くことはなく、聞くことがなければ信仰もない。 ローマ人への手紙10:17は、「信仰は聞くことから生まれ、聞くことはキリストのみことばによるのです」と語る。 この宣教の基盤となるのが、「読むこと(アナグノーシス)」である。

コイノニア(Koinonia、交わり)とは、宣べ伝えられたみことばが、共同体の中で生活を通して分かち合われることである。 パラクレーシス(勧め)は、このコイノニアのことばである。 互いに勧め、励まし、慰めることが交わりなのだ。 ヘブル人への手紙10:25は、「集まることをやめてしまう、ある人たちの習慣に倣わず、むしろ互いに勧め合い、その日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と語る。 交わりがなければ、みことばは個人のものにとどまり、共同体の糧にはならない。

ディアコニア(Diakonia、奉仕)とは、教えが生活の中の行動へと流れ出していくことである。 ディダケー(教えること)は、単に知識を伝えることではなく、 その知識が仕える生き方として実現するように訓練することである。 使徒の働き6章の執事(ディアコノス)たちは、このディアコニアを代表する者たちであった。 みことばが絶えず宣べ伝えられ(ケリュグマ)、そのみことばが共同体の中で分かち合われると(コイノニア)、 自然に奉仕へとつながっていく(ディアコニア)。 三本の柱は、この三つの機能を支えている。

IV. みことばに深く根ざした者が用いられる — ステパノの事例

使徒の働き6章には、教会史上初めて執事が選ばれる場面が記されている。 ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちが救済から取り残されるという問題が起こると、 使徒たちはみことばの働きに専念し(プロスカルテレオー、絶えずしっかりととどまる)、執事たちを立てることにした。 執事の条件は、ただ一つであった。「御霊と知恵に満ち、評判の良い人たち」(使徒6:3)である。 みことばと祈りに深く浸っている人でなければならなかった。

その執事たちの中でも、ステパノは特別であった。 ステパノのギリシア語の名は「ステファノス(Στέφανος)」で、「冠」を意味する。 彼は執事であり、財政面で仕える、後方から働きを支える者であった。 しかし、使徒の働き6:10には、「ステパノが知恵と御霊によって語っていたので、彼らは対抗できなかった」とある。 当時のエルサレムにいた多くの祭司や律法学者、つまりみことばを職業としていた者たちでさえ、 みことばによってステパノに打ち勝つことはできなかった。 役職や地位ではなく、みことばにおける深さが、用いられ方の深さを決めるという原理である。

「ステパノは恵みと力に満ちて、民の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」

使徒の働き6:8

ステパノは、キリスト教史上最初の殉教者となった。 石を投げつけられて死にゆく中でも、彼が穏やかな顔を失わなかったことを、 サウロ(パウロ)は目撃した(使徒7:58–8:1)。 パウロは後に、アラビアの荒野での三年間の黙想の中で、その光景を真っ先に思い起こした(ガラテヤ1:17–18)。 みことばに深く根ざしたステパノの殉教がパウロを生み、 そのパウロがテモテに、「読むこと、勧めること、教えることに専念しなさい」と命じた。 みことばの働きの系譜は、このようにつながっている。

執事の働きとみことばの関係

ステパノの事例は、みことばの働きが牧師や働き人だけに関わるものではないことを示している。 執事は、最前線の宣教を後方から支える働き手である。華やかではないが、なくてはならない。 しかし、ステパノがそうであったように、後方で仕える者も、みことばに深く根ざしていなければならない。 コリント人への手紙第二8–9章に登場するマケドニアの信徒たちは、極度の貧しさの中でも、自分を空しくして献金した。 彼らを動かしたのは、感情や義務感ではなく、 みことばを通して悟ったキリストのケノーシス(自己を空しくすること)であった。 みことばが生き方を変える。それが、読み、勧め、教える働きの究極の目標である。

V. 宣べ伝える人がいなければ — ローマ人への手紙10章における救いの連鎖

ローマ人への手紙10:14–15は、救いが実現するまでのつながりを、逆の順序でたどっている。

順序救いの連鎖聖句
遣わされた人がいなければならないローマ10:15 — 「遣わされなければ」
宣べ伝える人がいなければならないローマ10:14 — 「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができるでしょうか」
聞かなければならないローマ10:14 — 「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか」
信じなければならないローマ10:14 — 「信じていない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか」
呼び求めなければならないローマ10:13 — 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます」

この連鎖の出発点は、遣わされた人の足取りである。 その足取りを可能にするのが、読み、勧め、教える働きである。 「良い知らせを伝える人たちの足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)。 なぜ、その足は美しいのか。その足が動かなければ、救いの連鎖全体が止まってしまうからである。

種を蒔く人のたとえ(マタイ13章)は、この連鎖を別のことばで表している。 「宣べ伝える人がいなければ、だれが聞くことができるでしょうか」(ローマ10:14)。 種を蒔く人がいなければ、どの畑も実を結ぶことはできない。 種を蒔く人の手には、種がなければならない。 その種こそ、読み、勧め、教える働きを通して蓄えられたみことばである。

OIA — エマオの弟子たちの事例

みことばを読み、勧め、教える働きの実りを最もよく示しているのが、 ルカの福音書24章の、エマオへ向かう道の場面である。 二人の弟子は、イエスの十字架と死を目撃(観察、Observation)したが、 その意味を解釈(Interpretation)できず、落胆したまま歩いていた。 そのとき、復活されたイエスがともに歩み、聖書を解き明かしてくださった。 二人の弟子は、次のように反応した。

「彼らは互いに言った。『道で私たちに語りかけ、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの内で心が燃えていたではないか。』」

ルカの福音書24:32

観察はしていても、その解釈を見失っていた彼らに適用(Application)が起こったのは、 主が聖書を解き明かし、その意味を示してくださったときであった。 これこそ、「勧めること(パラクレーシス)」が実際に行われる場面である。 みことばを読むことが観察であるなら、勧めることは解釈を助けることであり、 教えることは、その解釈が生活に適用されるように根づかせることである。 OIAは、読むこと、勧めること、教えることという三本の柱の、もう一つの呼び名である。

VI. ページが擦り切れるほど聖書を読みなさい — パウロの最後の願い

テモテへの手紙第二は、パウロがローマの獄中で書いた最後の手紙である。 彼は、まもなく殉教することを知っていた。 「私はすでに注ぎのささげ物のように注ぎ出され、世を去る時が近づいています」(Ⅱテモテ4:6)。 そのパウロが、テモテに願ったことがある。

「あなたが来るとき、私がトロアスのカルポの家に置いてきた上着と、書物、特に羊皮紙に書かれたものを持って来てください。」

テモテへの手紙第二4:13

上着が必要だったのは、寒さのためであった。 しかし、書物、とりわけ羊皮紙に書かれたもの、すなわち聖書の写本を求めたのは、 最後の瞬間までみことばを読み続けるという決意の表れであった。 処刑を前にした人の最も切実な願いは、聖書であった。

これは、「専念しなさい」ということばの生きた実例である。 専念するとは、状況が良いときだけ行うことではない。 獄中でも、死を前にしても、みことばを読み、勧め、教えることをやめない。それが専念するということである。 世界を横断して旅をしていても、聖書を手放さない。それは、パウロが自らの生き方で示した原理である。

救いの五大書簡 — みことばの骨組み

パウロが体系的な教え(ディダケー)の土台とした書簡がある。 福音の教理が集約された五つの書簡、すなわち、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一、コリント人への手紙第二、ガラテヤ人への手紙、ヘブル人への手紙である。 この五つを深く学ぶと、キリスト教教理の骨組みをすべて把握することができる。 罪論、救済論、キリスト論、聖霊論、終末論が、この五つの書簡の中に集約されている。 読み、勧め、教える働きは、この骨組みを土台とするとき、揺らぐことがない。

VII. みことばの働きを支える教理的基盤

聖霊論 — みことばを悟らせてくださる方

ヨハネの福音書16:13は、「しかし、真理の御霊が来られると、あなたがたをすべての真理へと導いてくださいます」と語る。 読み、勧め、教える働きの主体は、人ではなく聖霊である。 人はみことばを読み、伝えるだけであり、そのみことばを悟らせてくださるのは聖霊である。 ヨハネの福音書14:26は、「助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、 わたしがあなたがたに語ったすべてのことを思い起こさせてくださいます」と語る。 聖霊は、みことばを思い起こさせてくださる。そのためには、まずみことばが自分の内になければならない。 読むことが先に来る理由は、ここにある。

キリスト論 — ことばは肉となった

ヨハネの福音書1:14は、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」と語る。 イエス・キリストご自身が、まさにことば(ロゴス、Λόγος)である。 読み、勧め、教えることは、単に情報を伝えることではなく、 生きておられるキリストを伝える行為である。 これが、みことばの働きがほかの教育と本質的に異なる理由である。 エマオの弟子たちの心が燃えたのは、情報を得たからではなく、 生きておられる主が、みことばのうちに彼らに現れてくださったからであった。

救済論 — 聞くことから信仰が生まれる

ローマ人への手紙10:17は、「信仰は聞くことから生まれ、聞くことはキリストのみことばによるのです」と語る。 救いは、聞くことから始まる。その「聞くこと」は、必ずだれかが読み、宣べ伝える行為を前提とする。 テモテに対する「読み、勧め、教えなさい」という命令は、単なる働きの指針ではなく、 救いの連鎖をつなぎ続ける使命の命令である。 専念しなさいとは、この救いの連鎖を止めてはならないという意味である。

VIII. 読むこと、勧めること、教えることに専念しなさい — 五つの実践原理

  1. ページが擦り切れるほど聖書を読みなさい。 パウロが獄中で羊皮紙を求めたように、状況にかかわらず、読むことをやめてはならない。 詩篇1:2は、「その人は主の律法を喜びとし、昼も夜もその律法を思い巡らす」と語る。 昼も夜も黙想することが、良い木の条件である。深く根を下ろしてこそ、水の流れのほとりに植えられた木のように実を結ぶ。
  2. 読んだことを自分一人だけで消化してはならない。 パラクレーシス(勧め)は、共同体の中で起こる。 読んだみことばを分かち合い、その適用をともに探し、互いに励まし合うことが、勧めることである。 ヘブル人への手紙10:24–25は、「互いに心を配り、愛と善い行いを励まし合い、集まることをやめてしまう、ある人たちの習慣に倣わず、むしろ互いに勧め合いなさい」と語る。
  3. OIA — 観察・解釈・適用を踏まえて教えなさい。 読むことは観察であり、勧めることは解釈を助けることであり、教えることは適用へとつなげることである。 エマオの弟子たちのように、観察するだけで解釈を見失うと、落胆してしまう。 解釈が開かれるとき、心は燃える(ルカ24:32)。
  4. 役職にかかわらず、みことばに深く根ざしなさい。 ステパノは執事であった。しかし、祭司や律法学者たちは、みことばによって彼に打ち勝つことができなかった。 タラントのたとえに登場する忠実なしもべのように、委ねられた場所でみことばを蓄えた者が、機会の訪れたときに用いられる。
  5. この働きに全身全霊を傾けなさい。 テモテへの手紙第一4:15は、「これらすべてのことに全身全霊を傾け、あなたの成長をすべての人に明らかにしなさい」と語る。 「専念」とは、何かの片手間にすることではなく、これに人生をかけなさいという命令である。 タラントを受け取ってすぐに商売を始めたように、みことばの働きも先延ばしにせず、今、この場所で始めなさい。

IX. 結論 — みことばに深く根ざした者が歴史をつくる

ステパノは執事であったが、みことばに深く根ざしていたからこそ殉教者となり、 その殉教がパウロを生み出した。 パウロは獄中でも羊皮紙を求めたからこそ、教会の神学の骨組みを築き、 その遺産はテモテを通して受け継がれた。 テモテは「読むこと、勧めること、教えることに専念しなさい」という命令を受けたからこそ、 エペソの教会を建て上げた。 みことばの働きの系譜は、このように流れている。

歴史をつくるのは、華やかな立場や高い役職ではない。 みことばに深く根ざした者が、歴史をつくる。 読み、勧め、教えることをやめない人が、次の世代を生み出す。

「そうすることによって、あなた自身と、あなたの教えを聞く人たちを救うことになるからです。」

テモテへの手紙第一4:16

みことばの働きは、働き手自身をも、聞く者をも救う。 これが、読むこと、勧めること、教えることに専念しなければならない理由である。 今日、聖書を開きなさい。

主な参考聖句
Ⅰテモテ4:7–16 / Ⅱテモテ4:6, 13
ローマ10:14–17 / ローマ1:16
使徒6:1–10 / 使徒7:54–8:1 / 使徒8:26–39
ルカ24:13–35 / ヨハネ1:1–14 / ヨハネ14:26 / ヨハネ16:13
マタイ13:1–23 / マタイ25:14–30
ガラテヤ1:17–18 / Ⅱコリント8–9章
詩篇1:1–3 / 詩篇119:18 / ヘブル10:24–25 / コロサイ3:16

よくある質問(FAQ)

「読むこと、勧めること、教えることに専念しなさい」の三つは、それぞれ何を意味するのでしょうか。
「読むこと(アナグノーシス)」は、人々の前で聖書を声に出して読む行為であり、初代教会の公の礼拝の中心でした。「勧めること(パラクレーシス)」は、読んだみことばを生活に結びつける牧会的な勧めであり、聖霊の呼称である「パラクレートス(助け主)」と同じ語根を持ちます。「教えること(ディダケー)」は、体系的な教理教育です。三本の柱は、みことばが聞こえ(読むこと)、生活に結びつき(勧め)、根を下ろす(教育)という、一連の流れを形づくります。
「専念しなさい」とは、どういう意味でしょうか。
ギリシア語の「エピメノー(ἐπίμενε)」で、単に「行いなさい」ではなく、「このことのうちにとどまって生きなさい、このことにひたすら打ち込みなさい」という意味です。テモテへの手紙第一4:15は、これを「全身全霊を傾けて」と表現しています。何かの片手間に行うのではなく、この働きに人生をかけなさいという命令です。
なぜ「みことばに深く根ざした者が用いられる」と言うのでしょうか。
使徒の働き6章のステパノは執事でしたが、当時のエルサレムの祭司や律法学者たちでさえ、みことばによって彼に打ち勝つことはできませんでした(使徒6:10)。役職や地位ではなく、みことばにおける深さが、用いられ方の深さを決めるという原理です。タラントのたとえで、すぐに商売を始めたしもべが報いを受けたように、みことばを着実に蓄えた者は、機会が訪れたとき、すぐに用いられます。
ローマ人への手紙10章の「宣べ伝える人がいなければ」は、どのように解釈すればよいのでしょうか。
ローマ人への手紙10:14–15は、救いの連鎖を逆の順序でたどっています。救いは、呼び求めること→信じること→聞くこと→宣べ伝えること→遣わされること、というつながりで説明されます。このつながりの出発点は、遣わされた人の足取りであり、その足取りを可能にするのが、読み、勧め、教える働きです。「良い知らせを伝える人たちの足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)とは、このみことばの働き手の足を指しています。
なぜパウロは、獄中でも書物を求めたのでしょうか。
テモテへの手紙第二4:13で、パウロは処刑を前にしても、「羊皮紙に書かれたもの」、すなわち聖書の写本を持って来てほしいと願っています。専念するとは、状況が良いときだけ行うことではなく、獄中でも、死を前にしても、みことばを読むことをやめないことです。「ページが擦り切れるほど聖書を読みなさい」というこの講解の勧めは、パウロの最後の姿に由来しています。