マタイの福音書4:1–11を中心に、荒野の三つの試練が何を狙っていたのか、そしてイエスの応答が今日の私たちにどのような原則を示すのかを探ります。
「そのとき、イエスは悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。』」
マタイの福音書4:1–3
「イエスは答えられた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる」と書いてある。』」
マタイの福音書4:4
マタイの福音書4章は、イエスの公生涯を開く扉である。 洗礼を受けられた直後(マタイ3:13–17)、御霊が鳩のように降り、 天から「これはわたしの愛する子、わたしの喜びとする者である」という宣言が響き渡る。 そして、その次の場面で、イエスは荒野へと導かれる。 父の愛の宣言の直後に、悪魔の試みが待ち受けていたのである。
「悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて」(マタイ4:1)。 荒野に行かれたのは、逃避ではなく使命であった。 イスラエルの民が荒野の40年間に繰り返し失敗したその場所で、 新しいイスラエルであるイエスは40日間断食し、勝利される。 これは新しい出エジプトの成就である。 荒野は試練の場所である以前に、自らが何者であるかを確かめる場所であった。
聖書において40という数字は、備えと試練の象徴である。 ノアの洪水では40日間雨が降り(創世記7:12)、モーセはシナイ山で40日間断食し(出エジプト記34:28)、 エリヤは40日間歩いてホレブの山にたどり着いた(列王記第一19:8)。 イスラエルは荒野で40年間を過ごした。 イエスの40日間の断食は、これらすべての荒野の経験を凝縮し、 旧約において未完成であった従順を完成させる行為であった。 サタンは、その果てにある極度の空腹を狙った。 しかし、最も弱い瞬間が、最も力強い応答の瞬間となったのである。
三つの試練は無作為なものではない。緻密に設計された構造を持っている。 それぞれの試練は、イエスのアイデンティティ(「神の子なら」)、使命、そしてその遂行方法を、 順に攻撃する。
飢えた肉体の必要を自分で満たしなさいという誘惑。神の備えよりも、自分自身の力を信頼しなさいという要求である。生存と物質を神よりも優先するのかを試す。
奇跡によって人々の視線を一瞬で引きつけなさいという誘惑。十字架の苦難を経ずにメシアとして認められる近道である。神を試みて自らの栄光を示そうとする欲望に働きかける。
十字架を経ずに世界の王権を得なさいという誘惑。最も露骨な要求である。苦難の道を迂回して栄光に至る方法を示す。礼拝の対象を変えなさいという試練である。
| 順序 | 誘惑の内容 | 狙ったもの | イエスの応答 | 引用箇所 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 石をパンにしなさい | 物質 · 生存 | 「人はパンだけで生きるのではない」 | 申命記8:3 |
| 2 | 神殿から飛び降りなさい | 名誉 · 奇跡の誇示 | 「あなたの神である主を試みてはならない」 | 申命記6:16 |
| 3 | 私を拝みなさい | 権力 · 近道 | 「あなたの神である主を礼拝し、ただ主にだけ仕えなさい」 | 申命記6:13 |
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」(マタイ4:3)。 この試練の核心は、空腹ではない。自らが何者であるかを証明することである。 「神の子なら」――これは条件節である。 神の子であるなら、この程度のことはできるはずではないか、という論理である。
イスラエルの民も荒野で同じ試練を受けた。 食べる物がなくなると、神に不平を言った(出エジプト記16:2–3)。 彼らの信仰は、パンがあるかどうかにかかっていた。 イエスの応答は、その失敗を覆す。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる』と書いてある。」
マタイの福音書4:4 / 申命記8:3
申命記8:3の背景には、イスラエルのマナの経験がある。 神は天からマナを降らせ、民を養われた。 その目的が、申命記8:3に明示されている。 「主があなたを低くし、飢えさせ、あなたも先祖たちも知らなかったマナを食べさせられたのは、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのことばによって生きることを、あなたに知らせるためであった。」 空腹は、御言葉の優先性を教える神の方法であった。 イエスはこの御言葉をもって、石の前に立たれたのである。
第一の試練は、今日も繰り返される。 「銀や金は私にはないが、私にあるものをあなたにあげよう」(使徒の働き3:6)。 ペテロのこの告白は、お金よりも大きな宝を持つ者だけが語れる言葉である。 お金に縛られている者は、第一の試練の前で崩れる。 タラントのたとえで、一タラントを地面に埋めたしもべの恐れも、ここから始まる。 物質が神よりも優先されるとき、タラントは地面に埋められるのである。
悪魔はイエスをエルサレムの神殿の頂に連れて行く。 神殿の頂からの高さは、キデロンの谷側で最大約100メートルであった。 そして今度は、悪魔が聖書を引用する。
「あなたが神の子なら、飛び降りなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるのだから。」
マタイの福音書4:6 / 詩篇91:11–12の引用
悪魔は詩篇91篇を引用した。 御言葉を知ることと、御言葉によって生きることは異なる。 悪魔は聖書を知っているが、文脈を無視し、自分の目的に合わせて歪める。 これが、この試練の中心的な警告である。 聖書の知識だけでは、試練に勝つことはできない。 御言葉の十全な解釈と適用が必要なのである。
「イエスは言われた。『「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。』」
マタイの福音書4:7 / 申命記6:16
申命記6:16の背景には、イスラエルがマサ(マッサ)で水がないために神を試みた出来事がある(出エジプト記17:7)。 「あなたの神である主を試みてはならない」という御言葉は、 奇跡を要求することによって神の存在と力を確かめようとする、人間の不信仰を戒める。 奇跡によって信頼に足ることを証明させようとするのは、もはや信仰ではない。 イエスは民の喝采を一瞬で得る奇跡の代わりに、 仕え、へりくだる道を選ばれた。
第二の試練は、認められたいという欲望の試練である。 十字架の苦難を経ずに、人々の驚嘆を得ようとする欲望である。 イエスはこれを拒まれた。 仕えることこそ真の権威であると、その生涯をもって示された。 「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、 多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのである」(マタイ20:28)。 偉大なしもべこそ、偉大な主人である。低くなることが、すなわち高くされることである。
第三の試練は、最も露骨である。 悪魔はイエスを高い山に連れて行き、全世界の国々とその栄光を見せて言う。 「私にひれ伏して拝むなら、これらすべてをあなたにあげよう」(マタイ4:9)。
この試練が狙っているのは、近道の誘惑である。 イエスは世界の王となるために、この地に来られた。 しかし、その王権を得る道は十字架であった。 悪魔が提案したのは、十字架を経ずに王権を得る方法であった。 代価を払わずに得る栄光、苦難を伴わない王権である。 しかし、その代価は、礼拝の対象を神から悪魔へと変えることであった。
「そこでイエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を礼拝し、ただ主にだけ仕えなさい」と書いてある。』」
マタイの福音書4:10 / 申命記6:13
「退け、サタン。」 第三の試練で、イエスは初めて直接命じられる。 忍耐の果てに、宣言がある。 そして申命記6:13――「あなたの神である主を礼拝し、ただ主にだけ仕えなさい。」 これが、すべての試練に対する最終的な答えである。 礼拝の対象が明確なとき、あらゆる誘惑は足場を失う。
第三の試練は、より高い地位、より早い成功、より大きな承認を得るために、 礼拝の方向を変えなさいという誘惑である。 「私を拝みなさい」という要求は、荒野だけでなく、働きの現場でも繰り返される。 すでに与えられているものに満足できず、 より高い地位を目指して別の道を選ぶことが、今日の第三の試練である。 「天と地のすべての権威が、わたしに与えられた」(マタイ28:18)―― イエスが受けられた権威は、十字架を通った権威であった。 近道によって得た権威ではなかったのである。
三つの試練すべてにおいて、イエスは申命記を引用された。 申命記8:3、申命記6:16、申命記6:13である。 これは偶然ではない。 申命記は、イスラエルの荒野の40年間が終わるときに、モーセが語った最後の説教である。 イスラエルは、その荒野で三つのことについて繰り返し失敗した。 食べる物がなくなると神に不平を言い(出エジプト記16章)、 奇跡を要求して神を試み(出エジプト記17章)、 金の子牛を造って、ほかの神に仕えた(出エジプト記32章)。
イエスは同じ荒野で、同じ三つの類型の試練を受けられ、 イスラエルが失敗したその場所で、すべてに勝利された。 これが、新しい出エジプト(New Exodus)である。 失敗したイスラエルの歴史を、新しいイスラエルであるイエスが完成されたのである。 イエスが申命記を引用されたことは、旧約の物語がここで成就するという宣言であった。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる。」 ヨハネの福音書1:14には、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」とある。 イエスが引用された御言葉にある「ことば」とは、まさにイエスご自身である。 人はイエス・キリストによって生きる。 この告白こそ、第一の試練における最終的な勝利である。 食べる物がなくても、御言葉があれば生きられる。 御言葉であるイエスとともにいれば、生きられるのである。
イエスの三大試練は、イエスの働きだけで終わるものではない。 主に従う弟子たちが必ず通らなければならない試練の原型である。 マタイの福音書講解・第7講(シェパード・ミーティング)で、張ダビデ牧師は指導者を立てる際に、 必ず吟味すべき三つの試練を示した。 それらは、イエスの三つの試練に正確に対応している。
| イエスの荒野の試練 | 今日の弟子の試練 | 中心となる問い |
|---|---|---|
| 第一 — 石をパンにしなさい(物質) | 物質(金銭)の試練 | お金を治めているか、お金に縛られているか。 |
| 第二 — 神殿から飛び降りなさい(名誉) | 愛の試練 | 主を愛しているか、世の承認を愛しているか。 |
| 第三 — 私を拝みなさい(権力) | 権力と名誉の試練 | すでに与えられたものに満足しているか、別の道を選ぶのか。 |
第一に、物質(金銭)の試練。 「銀や金は私にはないが、私にあるものをあなたにあげよう」(使徒の働き3:6)。 この言葉は、銀や金よりも大きな宝を持つ者だけができる告白である。 荒野の第一の試練を通った者だけが、この告白をすることができる。 お金に縛られている者は、弟子ではない。
第二に、愛の試練。 主を愛しているのか、それとも世の注目を愛しているのか。 神殿の頂から飛び降りるのは、人々の驚嘆を得るためであった。 奇跡によって認められようとする欲望こそ、第二の試練の本質である。 この試練に勝った者は、人目につかないところでも忠実なしもべとなる。
第三に、権力と名誉の試練。 すでに与えられているものに満足しているだろうか。 より高い地位、より早い成功のために、別の道を選んではいないだろうか。 「退け、サタン」という宣言が、この試練への答えである。 礼拝の対象が明確な者は、近道の誘惑に揺さぶられない。
ヘブル人への手紙4:15には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で私たちと同じように試みを受けられた方である」とある。 イエスは、まことの人(Vere Homo)として、現実の空腹と現実の誘惑を経験された。 ピリピ人への手紙2:6–8が語るケノーシス(自己を空しくすること)――神と等しい方が、自らを低くし、弱い人間の立場にまで降りて来られた。そのへりくだりの中で試みを受け、勝利されたのである。 だからこそ、私たちの弱さをご存じである。試みを受けている者を助けることがおできになる(ヘブル2:18)。
イエスが荒野の三つの試練に勝利されたことは、単なる個人の信仰訓練ではない。 イスラエルが荒野で失敗したすべての場面で、その代わりに勝利されたのである。 ローマ人への手紙5:19には、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の方の従順によって多くの人が義人とされるのである」とある。 アダムの不従順によって始まった失敗の歴史が、イエスの完全な従順によって覆される。 私たちは、この勝利の上に立っている。
「御霊に導かれて荒野に行かれた」(マタイ4:1)。 試練の場所へ行かれたことも、御霊の導きであった。 聖霊は、安楽な場所だけに導かれるのではない。 試練の場にも導かれる。しかし、ひとりにはなさらない。 ヘブル人への手紙2:18には、「ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みを受けている者たちを助けることがおできになる」とある。 御霊が導かれた荒野で、御霊の力によって勝利された。 今日、私たちが受ける試練にも、聖霊はともにいてくださる。
イエスは40日間の空腹の後、三度の試練を受けられ、そのすべてに勝利された。 人間の最も弱い場所で、御言葉によって立たれたのである。 その勝利は、イエスご自身のためだけのものではなかった。 イスラエルの失敗を代わって覆す勝利であり、私たちに先立って試練を通られた先駆者の勝利である。
私たちにも荒野がある。 物質の荒野、名誉の荒野、権力の荒野である。 その荒野でイエスが用いられた武器は、ただ一つであった。 「書いてある。」 同じ御言葉が、私たちにも与えられている。 その御言葉を、心に蓄えているだろうか。 それこそが、今日の荒野を通り抜ける方法である。
「すると、悪魔はイエスから離れ去り、御使いたちが近づいて来て、イエスに仕えた。」
マタイの福音書4:11
試練が終わったその場所に、御使いたちが来た。 荒野の果てに、仕える者たちの姿があった。 今日の荒野にも、終わりがある。 御言葉によって立つ者のもとに、必ず御使いたちは来る。