マタイによる福音書9章35–38節を中心に、羊飼いのいない羊のような群衆をご覧になった主のあわれみと、収穫のための祈りが、どのように宣教へとつながるのかを探ります。
「イエスはすべての町や村を巡り、彼らの会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気とあらゆる弱さを癒やされた。また、群衆をご覧になって深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊のように苦しみ、さまよっていたからである。」
マタイによる福音書9章35–36節
「そこで弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のための働き手を遣わしてくださるように願いなさい。』」
マタイによる福音書9章37–38節
マタイによる福音書9章35–38節は、マタイ4–9章にわたるイエスのガリラヤでの働きを要約する結びであると同時に、10章の十二弟子の派遣へとつながる転換点である。イエスはすべての町や村を巡り、教え、宣べ伝え、癒やされた。そして、その働きのただ中で「群衆をご覧になって深くあわれまれた」(マタイ9:36)。
この一文が、この箇所全体の出発点である。あわれみ(ギリシア語「スプランクニゾマイ、σπλαγχνίζομαι」)は、単なる同情ではない。はらわたが引き裂かれるような痛みを意味する、強烈な言葉である。イエスは群衆を遠くから観察されたのではなく、彼らの苦しみをご自身の身に感じられた。宣教と伝道のあらゆる動機は、ここから始まる。 ご覧になり、深くあわれまれること。 見なければあわれみは生まれず、あわれみがなければ祈りも生まれない。
マタイによる福音書4–9章には、イエスの初期のガリラヤでの働きが記されている。山上の説教(5–7章)によって神の国の原理を教え、数々の癒やしの出来事(8–9章)によってその国の力を示された。9章35節は、これらすべての働きを「教え、宣べ伝え、癒やされた」という三つの動詞で要約する。そして、その結びにおいて、イエスはこの働きをお一人で続けようとはなさらない。弟子たちに祈りを命じ、すぐに続く10章で彼らを遣わされる。あわれみから祈りへ、祈りから派遣へとつながる流れが、この箇所の構造である。
「彼らが羊飼いのいない羊のように苦しみ、さまよっていたからである」(マタイ9:36)。この表現は、イエスが新たに作られた言葉ではない。旧約聖書に繰り返し登場する、イスラエルの霊的状態についての診断である。
| 聖書箇所 | 文脈 | 意味 |
|---|---|---|
| 民数記27:17 | モーセが後継者を求める祈り | 指導者がいなければ会衆が散らされるという恐れ |
| 列王記第一22:17 | 預言者ミカヤの幻 | 敗戦を目前にしたイスラエルの散らされた姿 |
| エゼキエル34:5–6 | 偽りの羊飼いたちに対するさばきの預言 | 羊飼いがいないため、羊たちが地の全面に散らされる |
| マタイ9:36 | イエスが群衆をご覧になった時 | まことの羊飼いである主が来られることにより、この診断が示す問題が解決される |
「苦しみ、さまよっていた」に当たるギリシア語は、それぞれ「エスキュルメノイ(σκύλλω、傷つき疲れた)」と「エリムメノイ(ῥίπτω、投げ捨てられた、倒れた)」である。単に道に迷ったという程度ではなく、方向を失い、傷ついたまま倒れている状態を描いている。当時のイスラエルには宗教指導者はいたが、まことの羊飼いはいなかった。パリサイ人や律法学者たちは、人々に重い荷を負わせながら、自らは動こうとしない者たちであった(マタイ23:4)。イエスは、その空白をご覧になった。
ヨハネによる福音書10章11節には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊たちのためにいのちを捨てる」とある。イエスは、羊飼いのいない羊をご覧になり、あわれまれるだけでは終わらなかった。自らその羊飼いとなられた。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、むしろ仕えるためであり、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28)。あわれみのまなざしは、十字架への歩みへとつながる。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)。この宣言には、二つの事実が並んでいる。畑は広く、作物は熟しているが、その畑に入る人が足りない。
福音を受け入れる準備のできた人々は、すでに多くいる。種を蒔く人のたとえにおける良い地のように、実を結ぶ畑はすでに熟し、待っている。問題は畑にあるのではない。
刈り入れる人が足りない。問題は畑の状態ではなく、働き手の数と献身にある。これこそ、宣教と伝道が常に急を要する理由である。
自分たちで募るのではなく、収穫の主に願い求めなさい。働き手を遣わされる主体は人間ではなく、神である。祈りこそが唯一の出発点である。
この不均衡は、種を蒔く人のたとえ(マタイ13章)の結論とぴたりと重なる。良い地に蒔かれた種は、必ず三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。しかし、その種を蒔く者、その畑を世話する者がいなければ、実りは生まれない。「宣べ伝える者がいなければ、だれが聞くことができるだろうか」(ローマ10:14)。収穫の問題は畑の問題ではなく、働き手の問題である。
「収穫の主に願いなさい」(マタイ9:38)。この表現は重要である。収穫は人間の事業ではなく、神の事業である。働き手を召し集め、訓練し、遣わされる主体は、究極的には神である。人間は願い求める者にすぎない。これは、宣教が人間の企画ではなく、神の主権による働きであることを示している。「至誠、天に通ず(至誠感天)」という原理のように、祈り(至誠)と神の応答(感天)がともに働く。
マタイによる福音書9章38節で、イエスが働き手のために祈るよう命じられた直後、すぐ次の章である10章1–5節に、驚くべき転換が起こる。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気とあらゆる弱さを癒やす権威をお与えになった。……イエスはこの十二人を遣わし、命じて言われた。」
マタイによる福音書10章1、5節
弟子たちが「働き手をお遣わしください」と祈ると、弟子たち自身がその祈りへの応答となった。これが、この箇所の最も驚くべき構造である。宣教の祈りは決して受け身ではない。祈る者が、そのまま遣わされる者となり得る。イザヤが「ここに私がおります。私をお遣わしください」(イザヤ6:8)と答えたように、祈りとは、応答を求めながら、同時に自らが応答となる備えをする行為である。
| 段階 | 聖書箇所 | 内容 |
|---|---|---|
| ① | マタイ9:36 | 主が群衆をご覧になって深くあわれまれる — あわれみ |
| ② | マタイ9:37–38 | 弟子たちに働き手のために祈るよう命じられる — 願い求め |
| ③ | マタイ10:1 | 十二弟子を呼び寄せ、権威をお与えになる — 備え |
| ④ | マタイ10:5 | 弟子たちを遣わされる — 派遣 |
あわれみが祈りを生み、祈りが備えを生み、備えが派遣へとつながる。この四つの段階は、大宣教命令(マタイ28:18–20)が完成するはるか以前、ガリラヤでの働きの初期から、すでに働いていた宣教の原型である。
マタイによる福音書13章の種を蒔く人のたとえは、収穫の神学の前半を成し、マタイ9章の収穫のための祈りは、その後半を成す。種を蒔くことが伝道であるなら、収穫することは、その実りを刈り入れることである。
種を蒔く人のたとえにおける良い地とは、石と茨が取り除かれた畑であった。そこでは三十倍、六十倍、百倍の実が結ばれる。しかし、どれほど良い畑であっても、刈り入れる手がなければ、穀物は地にあって腐ってしまう。種を蒔く働きと刈り入れる働きは、ともに進まなければならない。ヨハネによる福音書4章35–38節で、イエスはサマリアにおいて弟子たちに語られる。
「目を上げて畑を見なさい。すでに白く色づき、刈り入れを待っている。刈り入れる者はすでに報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めている。それは、蒔く者と刈り入れる者がともに喜ぶためである。」
ヨハネによる福音書4章35–36節
蒔く者と刈り入れる者が、ともに喜ぶ。宣教は個人の成果ではなく、ともに働く共同体の務めである。執事(ディアコン)の働きも、宣教師の働きも、教師の働きも、すべてこの一つの収穫に加わる、それぞれ異なる手なのである。
ヘブル人への手紙4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない」とある。イエスのあわれみは、感情の揺れではなく、受肉の本質である。ピリピ人への手紙2章6–8節のケノーシス(自己を空しくすること)— 神と等しい方が自らを低くされたのは、まさにこのあわれみのゆえであった。羊飼いのいない羊をご覧になったまなざしが、十字架へ向かう歩みを生んだ。収穫の主であるイエスご自身が、まず畑に入り、種となって蒔かれたのである(ヨハネ12:24)。
「人の子が来たのは、失われた者を捜して救うためである」(ルカ19:10)。収穫を待つ畑にいる人々は、羊飼いもなく散らされた者たち、さばきの下にある者たちである。ローマ人への手紙1章が描く「放置された」状態にある人間こそが、この収穫の対象である。収穫は、さばきを遅らせ、救いの機会を広げる恵みの働きである。働き手が遅れるほど、収穫の機会は少なくなる。
使徒の働き13章2節には、「彼らが主に仕え、断食していると、聖霊が言われた。『わたしが召して行わせる働きのために、バルナバとサウロを取り分けなさい』」とある。収穫の主が働き手を遣わされるのは、聖霊を通してである。聖霊が召し、聖霊が取り分け、聖霊が遣わされる。「働き手をお遣わしください」という祈りは、究極的には聖霊の働きを求める祈りである。聖霊が臨まれるところに、収穫の働き手が起こされる。
使徒の働き6章に記された執事の選出は、この収穫の神学の実践例である。救済の配給から取り残されたやもめたちの必要を満たすために、七人の執事が立てられた。使徒たちはみことばの働きに専念し、執事たちは実際的な必要に仕えた。これが収穫の畑における役割分担である。
執事は、最前線の宣教(Frontier Mission)を支える後方の奉仕者である。華やかではないが、なくてはならない。ステパノは執事であったが、みことばに深く根ざすようになり、殉教者となった。みことばに深く根ざした者が用いられるという原理は、収穫の畑のどの持ち場にも同じように当てはまる。だれもが、自分の立つ場所で収穫の働き手となることができる。
ケリュグマ(宣言)→ コイノニア(交わり)→ ディアコニア(奉仕)という教会の構造は、収穫の働きの実際の流れである。みことばが宣べ伝えられることによって(ケリュグマ)種が蒔かれ、それを受け入れた人々が共同体の中で交わりながら(コイノニア)成長し、その成長が奉仕として(ディアコニア)実を結ぶ。この循環が止まらないとき、収穫は続いていく。
二千年前、ガリラヤの村々には、羊飼いのいない羊のように疲れた群衆がいた。今日も変わらない。方向を失い、疲れ、散らされた人々が私たちの周りにいる。収穫は今も多い。問題は畑ではなく、働き手である。
イエスは弟子たちに、まず祈るように言われた。そして、その祈りへの応答として、弟子たち自身を遣わされた。今日の私たちの祈りも、同じ流れをたどる。「収穫の働き手をお遣わしください」という祈りは、同時に「私をお遣わしください」という献身の扉を開く祈りである。
「私はまた、主の御声を聞いた。主は言われた。『わたしはだれを遣わそう。だれがわたしたちのために行くだろうか。』そのとき私は答えた。『ここに私がおります。私をお遣わしください。』」
イザヤ書6章8節
畑の作物は熟している。収穫の主は待っておられる。今日、祈りなさい。そして、応答しなさい。