マタイの福音書9:14–17を中心に、断食をめぐる論争の中でイエスが宣言された新しい時代の神学的意味を探ります。
「真新しい布切れを古い衣に継ぎ当てする人はいない。その継ぎ当てが衣を引っ張り、裂け目がいっそうひどくなるからである。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしない。そうすれば皮袋が破れ、ぶどう酒も流れ出し、皮袋もだめになってしまう。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない。そうすれば、両方とも保たれる。」
マタイの福音書9:16–17
マタイの福音書9:14–17は、イエスがマタイ(レビ)の家で取税人や罪人たちと食事をされた直後に続く箇所である(マタイ9:9–13)。 パリサイ人たちがその食事を問題にすると、イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と答えられた。 その直後、ヨハネの弟子たちが訪ねて来て、別の質問を投げかける。
「そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのもとに来て言った。『私たちとパリサイ人たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。』」
マタイの福音書9:14
断食は、ユダヤ人の敬虔な生活における中心的な実践であった。 律法が命じていたのは大贖罪日の一日の断食だけであったが(レビ記16:29)、 一世紀の敬虔なユダヤ人たちは、週に二回、月曜日と木曜日に自発的に断食をしていた。 ヨハネの弟子たちも、パリサイ人たちも、この慣習を守っていた。 ところが、イエスの弟子たちは守っていなかった。 この質問の背後には、「あなたがたは敬虔ではないのか」という暗黙の批判が潜んでいる。
マタイの福音書9章では、イエスが何者であるかをめぐる論争が続く。 罪を赦す権威(9:1–8)、罪人との食卓の交わり(9:9–13)、そして断食をめぐる論争(9:14–17)が、 連続して登場する。 三つの出来事は、いずれも異なる角度から同じ問いを投げかけている。 「この人は誰なのか。そして、この人がもたらしたものは何なのか。」 新しいぶどう酒のたとえは、この問いに対するイエスの決定的な答えである。
イエスは質問に直接答えるのではなく、三つの情景をもって答えられる。 それぞれの情景は、異なる角度から一つの真理を指し示している。
「婚礼の客たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるだろうか。」花婿が共にいる間は、祝宴の時である。悲しみ、断食する時ではない。イエスの臨在そのものが、その時代を規定する。
「真新しい布切れを古い衣に継ぎ当てする人はいない。」まだ洗っていない新しい布は、水にぬれると縮む。古い衣に継ぎ当てをすれば、その収縮によって古い布が裂けてしまう。誤った組み合わせは、かえって破壊を招く。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない。そうすれば、両方とも保たれる。」発酵し、膨張する新しいぶどう酒には、伸縮性のある新しい皮袋が必要である。古い皮袋は破れてしまう。形式と内容が、ともに生かされなければならない。
三つの情景は、同じ構造を持っている。 新しい実体が古い器と出会うと、両方とも破壊される。 無理に合わせようとせず、新しい実体にふさわしい新しい器を用意しなければならない。 これが、イエスのもたらされた時代の特質である。
古代の皮袋は、動物の皮で作られていた。 新しい皮袋には、柔軟性と伸縮性がある。 ぶどう酒が発酵してガスを発生させ、膨張するとき、新しい皮袋はそれに合わせて伸び、その圧力に耐える。 しかし、古い皮袋は、すでに一度膨張した後に硬くなった状態である。 それ以上伸びる余地がない。 新しいぶどう酒が再び発酵して膨張すると、その圧力に耐えられずに破れてしまう。
| 要素 | 古い皮袋 | 新しい皮袋 |
|---|---|---|
| 状態 | すでに伸びきり、硬くなっている | 柔軟で、伸縮性がある |
| 新しいぶどう酒を入れた場合 | 膨張に耐えられず、破れる | ともに伸び、保たれる |
| 結果 | ぶどう酒も流れ出し、皮袋もだめになる | 両方とも保たれる |
| 神学的意味 | 古い律法主義の形式 | 聖霊にあって新しくされた心 |
このたとえの核心は、古いものが悪いということではない。 古い皮袋は、それなりの役割を果たしてきた。 問題は、 新しい実体を古い枠組みに無理やり押し込もうとする試みにある。 パリサイ人たちは、イエスがもたらされた新しいいのちを、古い律法主義の枠組みの中に閉じ込めようとした。 その結果は、両方の破壊であった。
新しいぶどう酒のたとえを誤解すると、イエスは律法を否定されたのだと考えがちである。 しかし、イエスは山上の説教ですでに明確に語っておられた。
「わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するために来たのである。」
マタイの福音書5:17
「あなたがたはこのように教えられてきた。しかし、わたしはあなたがたに言う」(マタイ5章全般)という反復構造は、 律法を廃棄するものではなく、律法の上に、より高い次元の愛の法を加えるものであった。 「目には目を、歯には歯を」(レビ記24:19–20)という律法的な正義(Justice)は、 敵を愛し、左の頬をも向ける愛の法(マタイ5:39、44)によって完成される。 これは、新しいぶどう酒のたとえが語っていることと、まったく同じ原理である。
律法が指し示していた実体が、今や到来した。 幕屋と神殿が指し示していた実体である主が来られた。 律法の罪(肉の行い)を超えて、福音の新しい義(良心の罪)を扱われる。 古い形式が間違っていたのではない。その形式が指し示していた実体が、今や古い形式を超える新しい器を求めるほど、満ちあふれて到来したのである。
旧約聖書では、神はしばしばイスラエルの花婿として描かれる。 ホセア書2:19–20には、「わたしはあなたを永遠にわたしの妻とする。義と正義、恵みとあわれみをもって、あなたをわたしの妻とする」とある。 イザヤ書62:5には、「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる」とある。 イエスがご自分を花婿と呼ばれたのは、ご自分こそがその契約の神であることを示唆する、キリスト論的な宣言である。 花婿が共におられる今は、古い時代が備えてきた祝宴が、ついに始まった時なのである。
新しい皮袋とは、具体的に何を指しているのか。 旧約の預言者たちは、すでにこの新しい器を予告していた。
「わたしはあなたがたのうちに新しい霊を置き、新しい心を与える。あなたがたの肉から頑なな心を取り除き、柔らかな心を与える。また、わたしの霊をあなたがたのうちに置き、あなたがたがわたしの掟に従って歩むようにする。」
エゼキエル書36:26–27
新しい皮袋とは、新しい心、すなわち新生(重生)した心である。 ヨハネの福音書3:5には、「人は水と聖霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とある。 新生は、ただ一度起こる出来事である。 この出来事を通して、人は新しい皮袋となる。 聖化は、その新しい皮袋の中で絶えず進んでいく過程であるが、 皮袋そのものが新しくされるのは、新生の瞬間に起こることである。
古い自己の習慣や枠組みでは、聖霊の新しいいのちを受け入れることはできない。 パリサイ人たちのように古い形式にしがみついたまま、新しいいのちを受け入れようとすれば、 両方とも破壊される。 「上にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)という命令は、古い習慣から離れ、 日々新しくされる心を備えるようにとの求めである。
マタイの福音書13章にある七つの天の御国のたとえのうち、パン種のたとえ(マタイ13:33)は、 新しいぶどう酒のたとえとまったく同じ原理を、別の情景によって示している。 パン種には、三サトンの粉全体を膨らませる、質的な変化をもたらす力がある。 新しいぶどう酒が発酵して皮袋を満たすのも、同じ原理である。 福音には、形式を超えて変化をもたらす力がある。 その力を受け止めるには、器そのものが新しくされなければならない。
ピリピ人への手紙2:6–8にあるケノーシス(自己を空しくすること)――神と等しい方が、ご自分を空しくし、しもべの姿を取って来られた。 この到来そのものが、新しい時代の始まりである。 イエスは、単に新しい教えをもたらされたのではなく、新しい存在のあり方をもたらされた。 花婿が臨在されることそのものが、古い時代の悲しみ(断食)を、新しい時代の喜び(祝宴)へと変える。 マタイ4:17の「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」という宣言――その御国は、すでにこの方と共に来たのである。
律法の義は、肉の行い(殺人、盗みなど)を扱う。 福音の新しい義は、良心の罪(憎しみ、貪欲など)を扱う。 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という教えは、 古い皮袋(律法の外面的な遵守)には入れることのできない、新しいぶどう酒(内面の愛)である。 イエスの血は、真理によって、愛によって、恵みによって、この良心の罪までも洗い清めた。 新しい義は、古い皮袋ではなく、新しい皮袋、すなわち聖霊によって新しくされた心にのみ収められる。
ヨハネの福音書16:7には、「わたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来られない」とある。 聖霊の時代が開かれるとともに、人の心は新しい皮袋へと形づくられる。 エゼキエル書36:27の「わたしの霊をあなたがたのうちに置き」という約束は、聖霊降臨によって成就する。 聖霊が住まわれる心こそが、新しい皮袋である。 古い皮袋(律法主義、形式主義)では、聖霊の新しいいのちが与える自由と喜びを受け止めることはできない。
この原理は、時代を超えて繰り返される。 新しい恵みの御業が臨むたびに、古い形式や習慣は、それを受け止めるには不十分となる。 問題は新しいぶどう酒そのものではなく、それを受け入れようとする器の姿勢にある。
ヨハネの弟子たちが投げかけた断食についての質問は、形式に関する質問であった。 イエスの答えは、実体に関する答えであった。 花婿が共におられる今は、悲しみの時ではなく、喜びの時である。 古い皮袋では、この喜びを受け止めることはできない。
新しいぶどう酒は、新しい皮袋を求める。 これは破壊ではなく、保全の原理である。 「両方とも保たれる」という約束が、このたとえを結ぶ言葉である。 新しいいのちが臨むとき、私たちの心も共に新しくされてこそ、そのいのちが余すところなく保たれるのである。
「これは何かをしようとするためではなく、恵みによって私たちを救い、聖なる召しをもって召してくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ただご自身のご計画と、永遠の昔からキリスト・イエスにあって私たちに与えられていた恵みによるのである。」
テモテへの手紙第二1:9
今日、古い皮袋を点検せよ。 そして、花婿が与えてくださる新しいぶどう酒を、新しい心で受けよ。 両方とも保たれるであろう。